七月二十日
私の席のうしろの人が椅子を机にいれないので、私が通るためにその人の椅子を机にしまっている。一日7,8回はしまっている。まあこんなことができていなくても、それを補ってあまりある才能の持ち主ではある。そういう意味では私は椅子をしまうしか脳がないと言える。しまうたびに劣等感がふつふつと生まれる。
七月二十一日
上司がドタキャンした代理で夏の挨拶まわりへ。代理では何の誠意も示せないと思うが意味はあるのか。基本的には客先の偉い人と弊社の偉い人が話しているのを、ふんふんと聞いているだけである。
自分のうなづきパターンについて考えていた。
細かくたくさんうなづく:「ハイハイハイハイ、あるあるあるある」。
大きくゆっくりうなづく:「いやまったくそのとおりです」。
俯いたまま小さくカクカクとうなづく:「分かります、分かりますけどそれが是とされない浮世のままならなさですよね」。
肯定だけどそれぞれニュアンスが微妙に異なる。フィジカルでリアルなコミュニケーションは情報が多い。
八月七日
脚を閉じて座る努力ができなったら女はおわりだな。
八月二十四日
妹に勧められたセブンイレブンのとみ田の冷やしつけ麺がうまい。これは真似してスープジャーをつかってつけ麺弁当をやるしかない。
九月二日
「『シェルパ』と道の人類学」を読んでいる。歩くことに表れる文化や歩くことの影響を考えるのはおもしろい。
これもそうだけど「『間合い』とは何か: 二人称的身体論」でも指摘されていたとおり、主体性っていままでの研究ではほんとに対象から外されていたんだな。主観を除いた客観的な事実こそ正確だと、それだけが正しい手法だと自分も疑っていなかったけど、結局生きている人間にとって事実ってそんな単純だろうか。
撮りつづけて五年になる"外からみる台所"も百件を超えた"閉店植物"も、なにかしらかのまとめを組み立てたいのだけど、そのときはそこに主観的な意識も恐れず扱ってみたい。研究の仕方を研究しないといけないのか。