へもか

憶測以上の確定未満

世界平和は銭湯からはじまる

ひさしぶりに銭湯へ行った。

疫病が流行しているので、大きな声の会話は控えるよう貼り紙された銭湯は静かで広くて天井が高くて、湯気が立ちこめて無言の裸のひとがそろりそろりと行き交い、静謐で荘厳ですらあった。教会*1みたいだ。

露天風呂へ行くとまだ霧雨が降っていた。湯船に顎のしたまで浸かって、湯気と雨粒が混ざりあったまだらな温度を顔で感じていた。これが気持ちいいから露天風呂はいいよね。

室内へ戻る。浴槽のふちにデンと腰掛けているひとに気を取られつつカランの前へ移動する。だいたいこの銭湯は照明設計がすこぶる良い。私のいる体を洗う空間は見やすいようダウンライトで明るく照らされているけど、浴槽の側は照度をグッと落として湯船でくつろげるよう薄明るく設定されている*2

肉厚でまろやかな直方体のような背中はその薄明かりに照らされてちょっと哀愁を漂わせていた。長年支えてきたもの、背負ってきたもの。いま銭湯にひとりで来ているこのひとは裸の背からそれを降ろして一息ついている。私とはちがうものだろうけどあなたも私もここではほんのひととき解放されている、そう思うと共に戦っているひとを見たような、そういうひとがいくらでも存在するんだということに気づいて気持ちがまるくなる。

銭湯から出るとだいたい世界平和は銭湯からはじまるんじゃないかって気持ちになっている。行きに着てきた上着は身体がぽかぽかでもう着られなかった。

 

*1:教会行ったことあるのかという話だけど、建築学生だったなごりで建築に行きたい一心で新旧の有名無名の宗教施設を見学したため一般的な無宗教の方よりは経験値があると思われる。

*2:この設計者は湯船で過ごすってことをよく分かっている。明るきゃいいってもんじゃない。実家の風呂は浴室の照明を消して脱衣所の明かりだけで湯船につかっているのが好きだった。

生活とSF

五月一日

ラーメン屋で塩ラーメンを食べていたら薬味にシソがほんのすこしだけ混ぜられていた。シソはほんのちょっとでも噛むと爽やかな香りがフワッとひろがっていいアクセントになる。もしトッピングが自由だったらネギはなしにしてシソだけにするな、というくらいよかった。いやしかしそれではこの塩ラーメンとしてのバランスは、調和は、失われてしまうのではないか。一部の機能が突出した最高レベルであるより、各機能が統合され調和した人間が理想像とされるように。意外なことに現在の人工知能はこの各機能の統合を完全に模倣することはできていない。人工知能は人間とはまったくちがう調和を見つけるのだろうか。まあ、シソはこの量がいいんだろうな。

ひさしぶりにピザがおいしかったのでちゃんと記録しておこう

強力粉100%の生地もっちもちじゃん

強力粉: 180g
ぬるまゆ: 100g
塩: 7g
砂糖: 4g
ドライイースト: 3g
オリーブオイル: 6g

ボウルに塩と砂糖を量りいれてぬるまゆ(イースト菌が死なない程度に)を注いで溶かす。強力粉を半分だけ入れて菜箸でよく混ぜる。

粉、分けていれて混ざるんか、と不安だったけど分けたほうがイーストがまんべんなく全体に混ざったように思う。

混ざったところにイーストとオリーブオイルを加えて残っている強力粉のさらに半分を入れて菜箸でまたよく混ぜる。

まとまってきたところで残りの強力粉を入れてボウルの中でぐいぐい押しつけるようにして粉っぽくなくなるまで混ぜる。まないたに取り出して二十分くらい捏ねて、すべすべになったら三つ(約100g)に切り分けてまんまるに丸めて発酵へ。

 

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具材は適当に。ミニトマトは十字に切り目を入れて握りつぶして種を除いたら、重量の1%の塩を振り混ぜておく。

もろもろ切ったり揚げたり和えたり、材料は揃った!

 

魚焼きグリルでちょうど焼ける生地は100gだった

ご家庭でもっとも高温で調理できる魚焼きグリル(300度)で焼くため、納まるピザの直径は180mm程度。100g程度にしておくとちょうどいい厚みになる。

もっと大きいピザが食べたいけど焼けないピザは食べられない。


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生地を伸ばすときフチにする部分は触れない

フチに発酵時のガス残しておいてふっくら焼いちゃおうという作戦。

まるめて発酵させた生地を打ち粉したまないたに取り出して、表、裏、ひっくりかえして両面に粉をまぶす。中心からぐいぐい押して伸ばす。

あたりまえだけど、発酵後に生地がきちんとまるいほど綺麗にまるく伸ばしやすい。生地はちゃんとまるめよう(どんなでもいいと思っていた)。

 

魚焼きグリルでいっきに焼こうとしない

生地を伸ばしおえたあたりで魚焼きグリルの火を最強で点火。グリル庫内の予熱を開始。クッキングシートのうえに生地を移動させて具材を載せていく。

すべて載せたら熱くなったグリルへ。今回はサラミを載せるのを忘れた。


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フチがふっくら膨らみところどころ焦げ、チーズがグツグツしかかったくらいでいい。

魚焼きグリルで完全に火を通そうとすると生地が焼けるより先に乾燥して硬くなってしまうのだ!
ここでグリルからピザを取り出そう。

 

フライパンとガスバーナーで仕上げる

ピザを魚焼きグリルにいれた頃、私はコンロでフライパンを熱していたのだ。ピザをクッキングシートごとグリルからアツアツのフライパンへ移動させ、シートだけスライドさせて取り外す。

私の部屋のグリルは上火しかなく裏面は焼けていないのでここからフライパンで裏面を焼く。おもむろにガスバーナーを点火。同時に表面の焼きが足りないところをゴーッと焼いてやる。


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生地を乾燥させずに裏面にもまずまずの焦げめができた。全体に火が入ったとおもう。

 

残った具材は混ぜればサラダになる

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残っちゃったトマトとスライスオニオンとオリーブ、ぜんぶ混ぜればなんとかなる。

 

課題

  1. 具材から出た水分が気になる
  2. トマトソースおいしくしたい

1.はモッツァレラチーズの水抜きをきちんとやってみる。今日はチーズを割いて絞ったけど、直前すぎたのでもっと時間をかけてみようかな。

今日はトマトソース、というかトマトピューレ塗っただけで塩すら忘れていた。具材にあわせてニンニクとかオレガノも使いたかったな。

おいしいおいしいと夫はよろこんでくれてうれしかったのでまた焼くぞ。

 

続々・ドライヤーをしているあいだに考えていること

ドライヤーをしているあいだに考えていること6

濡れたままの髪で椅子に座っていたら髪を乾かすよう夫に言われたが、この髪型は濡れているときに毛束感があっていまがいちばんサマになっているんじゃい!と思った。

 

ドライヤーをしているあいだに考えていること7

金曜日に部屋で映画を観たくてレビューを読みながら映画を選んでいたら「頭カラッポで観れる」というのがあり、小難しいのは観れないなという気持ちだったのでちょうどいいなと再生した。

結果、それはただ脈絡もなくバカをつづける頭がカラッポなだけの映画だった。

それで気づいたんだけど、私にとって「頭カラッポで観れる」というのはほとんど最高の映画に与える評価だった。観ている最中に「ハァ?」みたいな違和感に襲われることなく身を委ねられる映画。それが頭カラッポで観れる映画だ!!!

なにひとつ破綻するなというわけではない。テンポや演出が良いだけでたぶんコロッと騙されてはいる。

具体的に例をあげると「LEGO®ムービー」、「LEGO®ムービー2」。これはほんとに頭はカラッポ、口は半開きで観れる。「スパイダーマン: スパイダーバース」も色彩と動きに飲み込まれて他のことを考えている余地がない。「雨に唄えば」もちょっと観なおさないと自信はないけど、もう我を忘れて観ていたはずだ。

ちなみにロマンチックな映画といえば「フォードvsフェラーリ」だと思っている。あれはロマンのかたまりです。

会社休みます

クッソオオオオーーーッ!!!みんなDaft Punkが解散したとかで「あのときのライブ見れてよかった〜」とか思い出話しやがってーーーッこっちはまだ思い出ないから解散しないでくれーーーッ!!!これから作っていこうぜーーーッ!!!イヤダーーーッ!!!ウワーーー!!!会社休みますーーーー!!!祝日だったーーーー!!!!在宅勤務だけどーーーー!!!!ああああああ!!!!!

褒められたりはしゃぎたい

 

二月七日

ケーキ屋さんへのんびり自転車を転がしていたら、歩道を仲良く走る二人の小学生男子としばらく並走することになった。二人の会話を聞きながら信号待ちで抜きつ抜かれつしていたが、踏切で完全に並んだ。

ひとりが宣言する。
「じゃあ、野菜な」
「よし、ズッキーニ」
「ニラ」
「らっきょう」
「ウンコ」

はやい。さすが小学生男子、四単語目でもうウンコ。ウコンでもよかったのではないか、と思ったけどそうするとンになる。しりとりに負けてしまう。そうか、もうウンコしかない。ウンコが野菜だって言うなら今度からおまえのサラダにウンコいれるからなって。たのしそうだった。

 

二月十九日

仕事の関係でずっと髭を剃ってしまっていた夫の顎にひさしぶりにラフに髭がはえていた。ひさしぶりだったので、え、こんなに髭かっこよかったっけ、とどぎまぎしていた。あまり長時間見つめるとバレて剃られてしまうかもしれないので、視線をスッと外してちょっとずつ見ていた。

 

二月二十一日

何年もかけて設計を担当していた商業施設の室内緑化の工事も大詰めを迎え、事業主立会いの完了検査を実施していた。とくに複数フロアのエスカレーターが交差する大きな吹き抜けは見せ場で、年中なにかしら花を咲かせてほしいとリクエストされた華やかな空間。

検査時に葉しかなかったらまずい。とっさに見渡すとあちこちでスモークツリーがふわふわと揺れて、アガパンサスが薄紫の大きなまるい花をポッポッと空中に突きだしていた。よかった、十分だろう。

事業主もニコニコでやっぱり植物があるといいね。ええ、そうですよね。かわいいですよね。とくにこのふわふわが気に入ったな。スモークツリーといいます。いいねえ。いいねえ。

と、和やかな完了検査が終わったところで目が覚めた。私が考える理想の完了検査だった。実際の完了検査は問題箇所の指摘確認の場でただねちねちやられるだけ。できたもので褒められたりはしゃぎたい。その欲望をそのまま夢に見てしまった。

 

 

〈一月の読んだ本〉愛の問い方を犬に学ぶ

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一月の読んだ本から一冊

23冊借りてそのうち6冊読み終えました。冊数を増やしたければマージンたっぷりのビジネス本や速度の出る小説を増やせばいいだけなので数は目標ではないですが。うーん、なにかちがう目安がほしい。

一月読んだ本から一冊選ぶならば「十五匹の犬」をお勧めします!

 

マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻

マルジナリアとは、本の余白(マージン)に書き込まれた痕跡のこと。

そのひとつとして著者は”索引”を自作しているという。え、目次があるのになぜ索引が必要なんだと不思議かもしれないけれど、レシピ本に材料別の索引があれば冷蔵庫のキャベツで何がつくれるかすぐ分かる。デジタルの⌘+F(検索)に慣れた私の味方である。

索引は検索だけでなく、著者がどの単語をピックアップしたのか、その本で重要とされるキーワードが把握できる。さらに馴染みのある領域の本なら索引から本のストーリーがわかる"本の成分表示"たりえるという。

自分の考えたこと感じたことの記録としてのマルジナリアを施せば、本は読むだけでなく使いこむものになる。その感覚の入口は、ペンを持って本を開くこと。楽しみかたの分からなかったものの楽しみかたを知るワクワクとした新年にふさわしい一冊だった。

私のマルジナリアがなにかの着想をいつかの私に与えることをたのしみに、まずは一冊書き込みながら読むことにする。

 

記憶のデザイン

現在の情報環境のなかで、どのように自分の記憶を世話できるか(p.93)

というのがテーマです。

現在の情報環境として、1. いつでもどこでもだれでも情報にアクセスできる、2. SNSで断片的な投稿を浴びるように見ている、3. フェイクニュースがはびこっている、といったような特徴があげられている。

結構なSNS人間としては、2.が記憶にどんな影響を与えているのか気になる。著者は脈絡のない断片的な情報を浴びつづけることを、

非意識的想起とどこか似ている。(p.140)

と言う。思い出そうとして記憶にアクセスするのではなく、あ、そういえば、で思考がジャンプするかんじ。確かに、あのジャンプを期待しているために、異物のような断片的情報の摂取がやめられないのかもしれない。

 

サカナとヤクザ ── 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う

農業と漁業、どちらもおなじ第一次産業だとあまり深く考えていなかったけど、農業は土を耕し作物を育て収穫するのに対し、漁業は魚介類を海から奪い取る荒々しく豪放な産業といえる。ま、そういう気っ風なのでヤクザとの関係も長く続いている。

密漁の規模は不確かではあるものの、持続可能な漁業という取組みを脅かす程度には十分らしい。ヤクザはいま儲かればいいので根こそぎやっていく。

密漁はなくならない。ウニやナマコやシラスウナギと各種密漁があり、採算が合わなくなれば暴力団は勝手にやめる。あくまでビジネスなので儲からない仕組みにすればいいのに、刑罰は軽すぎてやるだけ儲かるのだからなくならない。

密漁品を買い叩く業者、都合の良いときは擦り寄って用が済めば平気で被害者面をする人たちが市場へ流通させ、なにも知ろうとしない消費者は「いいのがはいったよ」でよろこんで密漁品を食べている。

結局いちばん怖いのは「普通の人」なんだ。

 

地下世界をめぐる冒険 ── 闇に隠された人類史

何も見えない暗闇を体験したのはいつだろう。

もう二年前になるけど、妹と行った熱海の横穴式温泉”走り湯”の洞窟だった。確かに瞬きしているのに暗闇では瞼の開閉に関わらず景色が変わらなくて、眼球があるはずの場所はただの二つの穴になったようだった。暗いだけで圧倒されたなあ。

十九世紀のパリでは夜遅くにマンホールをあけ蝋燭を掲げて下水道を散策することが流行り、あらたな遊歩道としてそこはひとつの社交場になったらしい。いつも身近にあるのに別世界の地下は新鮮でおもしろかったんだろうな。

地下世界冒険の最大の危機はなんといっても迷子。

地下で迷子になるなんて考えただけでゾッとするけど、方向感覚を取り戻すため目や耳や鼻や毛穴から情報が流れこむような、すべてが鋭敏になるあの必死の感覚を味わいたい気もする。

迷子になったことはもう遠い昔ですぐには思い出せない。地上でいいので迷子やってみようかな。

 

最高の集い方: 記憶に残る体験をデザインする

もともと人とつるむことに苦手意識があり人の群れをバカにしていた、いやしているけど、それは人の輪をつくる力に憧れながら自分にその能力がないことを再確認させられるのがいやで避けているのではなかったか。

人生とは人との集いそのものです。(p.8)

著者が冒頭で断言するとおり生きるうえで集いは避けられないのだ。

おもしろいのは人が集まっているので自分が他人にどう見られるのかという自意識が生まれ、集まりの害となること。

ホストにとって集まりの難関のひとつである場を正しく仕切るべきシーンで、自然体(チル)の流れに任せたくなるのは、参加者のためではなく自分がどう見られるのかばかり気にしているから! ああ、たしかに! 身に覚えのないひとなんているのだろうか。

ゲストなら成功談ではなく弱みを見せて語りあったほうが、その後の協力者を得られるのに、あれもこれもできると有能アピールしてしまうのも根は一緒だろう。

いろいろコツはあるけど、我が身可愛さが基準になっていないか問うだけでもずいぶんよくなる。

人の集まる空間というハードの話は個人的には大好きだ。どんどんしたい。人は空間に影響されるので集まりにはふさわしい空間というものがある。

実家で夕食が進むと気がつけば妹弟と母と狭い台所に集まりがちで、すこし不思議だったけど、あれは混み具合がちょうどよかったんだ。家族という集団に対してちょうどいい混み具合。

机の混み具合と話の盛りあがりは比例する(たぶん)。居酒屋やタイ料理店の賑やかに皿がひしめいている机では話は弾んでいたのではないか。

過去形で書いたらちょっと悲しくなっちゃった。人間が社会的動物であるかぎり集まることはなんらかの形で続く。集うことがむずかしいこのタイミングに、人はなぜ集うのか考えることができてよかった。

 

姿勢としてのデザイン ── 「デザイン」が変革の主体となるとき

大学時代の恋人は、デザインは見てくれをどうこうしているものじゃないんだ、という話を最後まで理解してくれなかったなと、あれから何年も経ったけどこういうデザインを再定義してくれる本に出会うたびに思いかえす。

デザインすることは職業ではなく姿勢アティテュードである。(p.7)

デザインという概念、デザイナーという職業は、一つの専門職から、《個人や社会のニーズから離れることなくその関係においてプロジェクトを捉え、目の前の問題を解決し、無から有を生みだすという広く意味のある姿勢》へと認識を改める必要がある。(p.7)

上記のデザインビジョンは、一九四七年に出版された「Vision in Motion」でモホリ=ナジによって書かれている。著者は下記のようにデザインを再定義する。

いくつもの顔を持つデザインだが、それは一貫して「世の中に起こるあらゆる変化──社会、政治、経済、科学、技術、文化、環境、その他──が人々にとってマイナスではなくプラスに働くように翻訳する《変革の主体》としての役割」を担ってきた。(p.11)

現代はついにモダンインダストリアルデザインの原則「形態は機能に従う(Louis Sullivan)」が通用しなくなりつつある。ちょっとショックですらあるけど。スマートフォンがその姿一つで何百もの機能を備えているのだからすでに身近な話だ。そこでは見た目ではなく操作のしやすさ(UX)が重要性を増す。ポジティブに考えれば、デザインが表層的なメディア/スタイリングだという思いこみや弊害を覆すきっかけになるかもしれない。

豊洲市場の騒動でこれからの設計の難しさを感じたけど、さらにデザインは誠実でなければ好ましく感じられたりあるいは受け入れられなくなる。寝転び防止のベンチの不快感が取り上げられるようになったのはそういう流れのひとつなんだろうな。

 

十五匹の犬

暇をもてあました神々の遊びで人間の知性を与えられた十五匹の犬の話。
子供の頃に犬のカタログを夢中で読んだので、

俊足のウィペット(母)と大型狩猟犬ワイマラナーのあいだに生まれたリデアは、昔から神経質だった。(p.19)

という文でありありと姿が浮かぶ。浮かばない方は画像検索するといい。

犬たちは言葉や思考と犬らしい本能や欲望の混在に悩み苦しむ。犬らしくふるまおうとするほど本来の犬から遠ざかる犬。知性を楽しみ詩作に耽りながら自分の死と同時に詩が消滅すると気づき他者と交流しなかったことを悔いる犬。

犬たちの発見はそのまま人間に置き換えられる。

人間と長く意思疎通しながら暮らした黒くて(おそらく)大きなプードルとは、愛とはなにかいっしょに考えて読んでいた。犬はかしこいので愛がなにか知ろうとはしない。愛という言葉を口にした相手がどういう意味で使ったのかを問う。