へもか

憶測以上の確定未満

ねばりづよさ

ある物件で、造園の設計も担当しているゼネコンの設計者と打合せをしていて、どうもやりたいこととやっていることが合っていないようなので、こうしてみたらどうでしょうと事業主から設計を見てやってくれと言われあいだに挟まれた悲しいサブコンとして提案すると、そういう造園のよくあるの、今回はやりたくないんです、と静かにでも固く押しかえされ、たとえば建築でよくある屋根や床、今回はやりたくないんです、と門外漢が言いはじめたようなもので、なぜそれがよくあるのか、知識もなければおそらく興味も持たない中年がどのツラさげて言うのか勘弁してくれ、と虚空を見つめながらすくなくともこの設計担当は自分のやってみたいことをやってやるという欲望があって、私はそういった欲望を実現へとコントロールする能力もなく熱意すら忘れがちでそれって設計者としては死んでいるのではないか、と内臓が溶けて椅子を伝って赤黒く流れ落ちる思いだったけど、今後設備や近隣要望との調整も必要になりますので要検討にしましょうとねばりづよく交渉する上司があたりまえかもしれないけど、人間としてできている、と感心するのだった(447文字)。

食事と生活 8

十一月二十八日

サイゼリヤに行こう、と友人夫妻とその娘ちゃんと約束していたので向かう。サイゼリヤでフルコース風に注文をするとすごくたのしい。

サイゼリヤと言えば、学生の頃に映画を観たあと映画の感想を言いあったりしながらドリンクバーを頼りに過ごす場所、くらいのイメージしかなかった。でもそんな語るほど夢中になれる映画に出会っていなかった気がする。自分の好きな映画を見つける方法が分からなかった。

あの頃、何を観ていたんだっけ。

f:id:rintaro113:20201205020741j:plain

f:id:rintaro113:20201205020755j:plain

f:id:rintaro113:20201205020832j:plain

f:id:rintaro113:20201205020844j:plain

 

注文はイナダシュンスケさんのコースを元にしました。

 

十二月一日

昼前からはじまった打合せが長引いた。昼食を求めて会社の外に出ると冷たい風が心地良い。コンペのプレゼンが明日に迫り、朝食を食べる時間に起きられるはずがなく、昼はコンビニのパンかコンビニのパンをレンジで温めてもらったもの、まともな夕食もとらず寝ている平日の生活に気づきドッと疲れを感じた。

火で。火で調理されたもうもうと湯気の立つ食事をとりたい。とらねば。

行ったことはないけど、福しんはちゃんと火で炒めたチャーハンを作ってくれる気がする(火で炒めないチャーハンを出す店ってあるのだろうか)。線路を越え会社最寄りの福しんへ向かった。

 

十二月四日

水曜にコンペが終わり、やっと金曜。気持ちは閉店していたのに帰宅は二十二時。

コンペ中は会社では夕食も間食も食べられず、日付変更線を越えて部屋に帰っても食べると寝る体力がなくなりそうで味噌汁等で空腹を紛らわしてベッドにはいっていた。

もう限界だ。私にも食べたいものくらいある。今日はカレーだ。ぜったいスープカレー。冷蔵庫を開ける。大根と牛蒡と玉葱と納豆。ミニトマトは萎れちまった。

大根と牛蒡と玉葱を切って全部鍋で炒めて納豆もドン。

f:id:rintaro113:20201205013127j:plain

適当にスパイスを入れて水となにかの出汁の粉と塩で煮えるまで煮る。力任せだ。こっちはどうしてもスープカレーが食べたいから必死だが、納豆も徹底抗戦の構え。ガラムマサラを追加して捻じ伏せにかかるが、まだ足りないか。ブラックペッパーを小さじ半ほど投下し鎮圧した。

f:id:rintaro113:20201205013940j:plain

こうしてよくわからないスープカレーができた。

私としてはよくぞここまで鍋を制したと思ったが、一口味見してくれた夫は何も言わなかった。人の食べているものにけちをつけない。本当に上品なひとだとおもう。

あ、結婚しました。

キャッツ

高校三年生の私のクラスは文化祭でキャッツのミュージカルをやった。

文化祭では展示かパフォーマンスかミュージカルをクラスごとに選ぶ。とくに決まってはいないのに一、二年生がミュージカルを選ぶのは無謀な挑戦、というか生意気とされていた。

高校をなめくさっていた私はろくに友人もいなかったので、文化祭だろうがなんだろうが学校で過ごす時間をわずかにでも増やしたくなかった。家に帰ってベランダにエサを撒いてカゴを立てかけたクラシックな罠にスズメが引っかかるのを待ちながら、クラッシュバンディクータイムアタックをやっていた。

クラスの彼女たちの大半は驚くほど真剣にミュージカルに取り組み、歴代の先輩たちのキャッツをビデオで学び(担任の教師がちゃんと持っている)、発声から歌、踊り、演技と練習に打ちこむ。

私は三人いる照明係のひとりに決定した。

照明は面白かった。ミュージカルを生かすも殺すも照明や音響にかかっている。シーンやメインになるキャラクターをふまえて照度を決め、少ないカラーフィルムからスポットライトの色を選び、フィナーレに向けて盛りあげる全体に流れのある感動的な照明計画を練りあげた。

私のキャラクターに照明が合っている、と出演者自身に言われたのがうれしかった。あれはリハーサルだったか。

文化祭当日。緊張と興奮で泣きだしそうな空気のなか幕があがり、彼女たちは歌い叫び足を鳴らして踊った。私は照明卓を離れ、スポットライトを握りステージを見た。ほかの二人が間違えて照明計画はボロボロになっていて流れもなにもなかったけど、ステージは輝いていた。

いま思えばごく普通の人間がミュージカルをやるチャンスは二度とない。私は高校生活を見下していたけど、あそこで全力で取り組んだ彼女たちのほうがよほど大人だった。

できることに全力で取り組むたのしさを分かっていた彼女たちが、思いだすたびに勝手に輝きを増していく。

振動するいなり

明日の早朝の移動が面倒で、現地近くに前日入りしておくことにした。恋人はまだ仕事から帰らないので顔を見ないまま部屋を出た。パートナーと話すことだけに意味があるわけじゃないとしても、私たちは平日はあまりに話さない。平日は互いに疲れている。疲れていることを言い訳にしている。

駅のホームですれちがう人に帰ってくる恋人がいるなら見落としたくなくて、次から次に現れるスーツの男性を目で追った。こんなにたくさんの他人の顔をまじまじと眺めることもあまりない。ホームにいなくても改札なら、改札を出たら、JRの改札なら、会えるんじゃないかと思っていたけどそんなうまくはいかなかった。ただの人混みだった。

品川で豆狸のいなりを三つ買う。

新横浜に向けて減速する新幹線の振動で、最後のひとつになった黒糖いなりが小刻みに震えている。

夜中に包丁を研ぐ

ひさしぶりに砥石を出して包丁を研いだ。

夜中に包丁を研ぐのはなんだか縁起が悪そうだけど、なんといっても夜中に包丁を研いでいるとかならず山姥のことが頭をよぎる。子供の頃に布団のなかで読んでもらうお話に、姉弟のだれが選んだのか覚えていないけど山姥の話があった。本を手にした母は手際良く話を進めた。旅の途中、土砂降りに襲われたところ老婆に洞窟へ招かれて過ごす夜を。シューッ、シューッという擦れる音に目が覚めて。光る包丁を砥石に当てたまま振りかえる山姥のおそろしい顔が。子供心に、寝るまえの読み聞かせとしてこんなに真に迫る必要ありますか、といったことをおもったけどそういう語彙をもたなかったので話が終わっておとなしく寝たとおもう。山姥がいると信じるような年齢ではなかったが、類するものがもしも存在する場合は逆撫でしたくなかったので舐めた口はきかなかった。

鳩サブレー

八月中旬に買った十枚の鳩サブレーをついに今日食べ終えてしまった。

いわゆる大事にいただきますねをありのまま実行したといえる。このひと月半、部屋に帰ったら鳩サブレーを食べてもいいな、と思わなかった日はない。実際に食べるかどうかではなく、鳩サブレーを食べられるという可能性を手中に収めている実感が私を支えた。

ザクッとかじればほろほろとした小片に砕け、ふんだんに含まれたバターと粗い粒の砂糖の存在をその砕けかたから知らしめる。堂々たるものだ。歯応えをたのしみつつ噛みくだくとジュワンとしたバターの旨みに香ばしさがひろがる。

そういえば面積の大きなおなかの部分と狭まっている尾の部分では火のとおりがちがうので食感が異なるのではないか。意識はしていなかったが部位による変化を食べ進めながら体験しているはずだ。鳩サブレー、どこまで人をしあわせにする気なんだ。

ちなみに私はおなかの部分が好きです。

ひとり、鎌倉を自転車で巡っていたときも鳩サブレーを買って食べた。このカロリーでこのあともしっかり走れるな、と思った。

いまも変わらず鳩サブレーで走っているのだ。ありがとう鳩サブレー

 

椅子、うなづき、つけ麺、主観

七月二十日

私の席のうしろの人が椅子を机にいれないので、私が通るためにその人の椅子を机にしまっている。一日7,8回はしまっている。まあこんなことができていなくても、それを補ってあまりある才能の持ち主ではある。そういう意味では私は椅子をしまうしか脳がないと言える。しまうたびに劣等感がふつふつと生まれる。

 

七月二十一日

上司がドタキャンした代理で夏の挨拶まわりへ。代理では何の誠意も示せないと思うが意味はあるのか。基本的には客先の偉い人と弊社の偉い人が話しているのを、ふんふんと聞いているだけである。

自分のうなづきパターンについて考えていた。

細かくたくさんうなづく:「ハイハイハイハイ、あるあるあるある」。
大きくゆっくりうなづく:「いやまったくそのとおりです」。
俯いたまま小さくカクカクとうなづく:「分かります、分かりますけどそれが是とされない浮世のままならなさですよね」。

肯定だけどそれぞれニュアンスが微妙に異なる。フィジカルでリアルなコミュニケーションは情報が多い。

 

八月七日

脚を閉じて座る努力ができなったら女はおわりだな。

 

八月二十四日

妹に勧められたセブンイレブンのとみ田の冷やしつけ麺がうまい。これは真似してスープジャーをつかってつけ麺弁当をやるしかない。

 

九月二日

「『シェルパ』と道の人類学」を読んでいる。歩くことに表れる文化や歩くことの影響を考えるのはおもしろい。

これもそうだけど「『間合い』とは何か: 二人称的身体論」でも指摘されていたとおり、主体性っていままでの研究ではほんとに対象から外されていたんだな。主観を除いた客観的な事実こそ正確だと、それだけが正しい手法だと自分も疑っていなかったけど、結局生きている人間にとって事実ってそんな単純だろうか。

撮りつづけて五年になる"外からみる台所"も百件を超えた"閉店植物"も、なにかしらかのまとめを組み立てたいのだけど、そのときはそこに主観的な意識も恐れず扱ってみたい。研究の仕方を研究しないといけないのか。