どうも、rintaroです。
すこしまえですが、山本貴光編の「サイエンス・ブック・トラベル 世界を見晴らす100冊」を読みました。
科学者30人がそれぞれ科学書をオススメしまくってくれるブックガイド。
正しく優しく説かれた最新の科学書や、科学者自身がこの道を志すことを決定づけた魂の一冊など、惜しげもなくドンドン紹介されていく。
科学者自身が自著を勧めているパターンに妙に胸が熱くなった。ただの宣伝かもしれないけど、「僭越ながら」と切りだしながらも「こういうこと書ききったの自著だけですから」という自信。かっこよかった。
ジャンルに関係なく本を作ること自体が、情熱や信念やそういうもので貫かれている本を読みたい。必ずしもそれらがダイレクトにギラギラしていなくてもいいのだけど。とにかくそういう本ばかり読んでいたい。
まあ、そんなわけでたくさんの読みたい本がリストに追加された。
このあいだ読みおえたのはそのなかの一冊、「動きが心をつくる―身体心理学への招待」(2011年)。
脳科学の発展によって心の仕組みは脳から解明できるという論調が主流のなか、身体の動きと心の関係を研究する身体心理学が傍流として必要だという本書(しかし自らの研究を傍流と表明する研究者。なぜだろう、嫌いになれないのは)。
実験結果や論文だけではなく日常体験や言語表現も裏づけとし、動きと心は分かちがたい関係であることを明らかにしつつ、まさかの実践運動紹介でフィニッシュ。
これがうさんくさい健康運動のようで全体に似非科学っぽさを感じてしまう(ごめんなさい)のだが、
心の緊張は体の緊張であり、体の緊張は心の緊張でもある。体の緊張のない心の緊張はないし、心の緊張のない体の緊張はないのである。
という感覚が身に覚えのあるかぎり、身体心理学として体系的に読むことは悪くない。
日常体験や言語表現といった文化に深く根ざしたいわばローカルな現象から、人間の動きと心の関係を探っていいものか疑問を感じたものの、"からだ言葉"についてはおもしろかった。
"からだ言葉"というのは、身体の部分がはいっている慣用句のこと。たとえば「ひどく怒った」より「腸が煮えくりかえった」のほうが、視界のゆがむようなグラグラとした強い怒りを感じることができる。
それで思いだしたのだけど、最近心をつかまれた本は、からだ言葉が多かったのではないか。
息が詰まるようでした。声の響きが失われ、なんだか真空ってこういうことじゃないか、という思いが頭をかすめました。
(絲山秋子「沖で待つ」)
私には信じられなかった。朝になったらまたうまくいくようになっているはずだと、思い続けた。彼が私にすっかり背を向けてしまうなんて、とても信じられなかったのだ。
(グレイス・ペイリー「人生のちょっとした煩い」)
どんな人でもいろいろな「語り」をその内側に持っていて、その平凡さや普通さ、その「何事もなさ」に触れるだけで、胸をかきむしられるような気持ちになる。(岸政彦「断片的なものの社会学」)
身体にあらわれた感覚や感情の表現は、動きを思い浮かべるうち乗っ取られるように心も同期する。
言語表現においても、動きを制する者は読むひとの心を制するのかもしれない。