どうも、rintaroです。
「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」という本を読みおえた。
「エクソフォニー」というのは、広義での"母語の外にある状態"を意味する。
意味は分からなくても(あるいは分かったあとでも)、「シンフォニー」が想い起こされて柔らかな音を感じる言葉だ、と思ったら著者も同じことを書いていた。
著者は日本出身で日本語とドイツ語の両方で文学を書いている、多和田葉子。
母語ではない言語と出会ったときに何が起こるのか、著者の感触が綴られている。
その新鮮な言語感覚も衝撃だったけど、本に触れた指先からじんわりと熱が伝わるように感覚に流れこむ表現にどきどきした。
類義語辞典で調べればより正しい表現が見つかると思いこんでいたけどそれとは違っていた。表現の正誤の判断より先に感覚に届いてしまう、身体に分からせる文章というものもあるんだ。
内容に惹きつけられてのめりこむというより、口にいれられてしまったら味を感じずにはいられないのに近い。
内容に話を移そう。
母語とほかの言語がひとりの人間の中でひしめくとき、意識もせず通過していたことに小さな違和感が生まれたり、思わぬところで言葉が分離したり、意味が飛躍したりする。
言語が声に出されたり音に乗ったりするとき、会話、祈り、演劇、演説、歌、と姿を変え世界と交わる。
さまざまに母語が揺らぐとき、言語や言葉にはたくさんの顔があるのだと知る。
言語は外来語から絶えず侵略を受けて歪んで壊れつづけている。
完璧な純粋な言語はない。
完璧でないから価値がないとか、そんなことじゃなくて、そこに生まれた出来事に出逢って一喜一憂できることに意味がある気がする。
多和田さんは"言語について"書いているだけだ、と分かっているのに生きることのメタファーのように感じてしまう。