へもか

憶測以上の確定未満

食事と生活 4

七月九日。

切っているキウイを床に落としてしまった。鈍らになった包丁の刃が果肉を引きずってまないたからそのまま落ちていった。
無印良品のオールステレンス包丁は買ったときからすっとぼけた切れ味だったけど、最近はとくにひどくて石器と言って差し支えない切れ味だった。

キウイを落としたことがショックで貝印の砥石を買った。プラスチックの台座がついていて研いだ汁を受けるので、作業台を水浸しにすることがない。とても研ぎやすい。荒砥石でジョージョージョージョー削ってから、中仕上砥石でシューシュー整えたら切れ味がすっかり良くなった。

抵抗なく食材に刃が入るようになって切れているのか一瞬分からないくらいで、二度爪を切り落とした。

包丁は選ぶまえに、研げ。そう思いました。

 

七月十日。

鯖(この時期だからもちろん真鯖ではなく胡麻鯖)に振った塩を馴染ませようと、切り身の皮に指先をすべらせて意外な人肌じみた手触りに驚いた。胸鰭から尾へ、撫でると指を押しかえしてくる肉の弾力がちゃんと生き物だなァと思う。

ディズニーの映画「リトル・マーメイド」で、人魚姫の付き人である海老が城の厨房に忍びこむシーンがある。そこでは海老の同郷である魚がコックに叩き切られ身を毟られており、目撃した海老は嘔吐しそうになる。今考えてみればかわいそう。人魚姫の色恋沙汰よりよほどかわいそう。

そういえば人魚姫は何を食べていたんだろうか、海の幸に囲まれて。泡かな。仙人みたいになっちゃうな。

そんなことを考えているあいだに鯖は鯖とレモンのパスタになりました。

 

七月十一日。

市販のルーでつくる家のカレーも好きだ。作るときは「はたしてどこまでやってもカレーでいられるのか」、市販ルーの限界を試すようなアレンジをしてしまうことが多いけど好きなんだ。

今回は豚肉の塊を手にいれたのでホワイトマッシュルームと男爵芋を加え、冷凍庫に保存している実山椒の塩漬けを煮込んで、実山椒カレーにした。玉葱を切らしていたせいでコクはルー頼りの底の浅い仕上がりになってしまったが、後味は実山椒でとにかく舌がビリビリとしびれる。

カレー屋でもやろうかなと思った。

本を読むたのしさの幅

 

村上春樹の本はよく読むけど、ぜんぶ読んでいるわけではない。私はハルキストではないし今後ハルキストになることもないだろう。でもこれからも何度も村上春樹を読むだろう。それでいいじゃないの、ね。

ただ彼には長く文を書いていてほしいな。

F・スコット・フィッツジェラルドの作品が、徹頭徹尾すばらしい短編小説じゃなくても心にざらりとしたものを残すとき、私は本を読むたのしさの幅を思いうれしくなる。

しかしほんとうに村上春樹の本をずっと読んだひとが、名作じゃないと読めないみたいなひどく貧しい発言をするかな。

細切れ

電車内の目にとまった広告が元宇宙飛行士の文だった。宇宙で感じたことについて子供にあてて綴られた親しみやすい言葉が、とてもありがたいものですよと全力で広告に演出されていて目で文を追ううち急激にシラケてきた。最終的にはちょっとインド行っただけでやたらインド推しになるひととなにが違うんだろうかと思うくらいまでシラケた。

宇宙飛行士になって宇宙に行ったことはとてもスゴイ。でもそのスゴイひとの言うことだからスゴイっていうのは違うんじゃないか。スゴイことが多いけども。そこは思考停止しないで私たちが「スゴイかな」って考えつづけているべきところじゃないのか。と、考えていたら会社に着いてしまった。平日は時間が細切れになるからとりとめのないことをゆっくり考えられないよね。

食事と生活 3

五月二十八日。

謝る。謝らない。謝る。謝らない。交互に出る足にまかせて相手の家の最寄り駅まで行ったけど、「相手も謝罪を受け入れられる状態ではないだろう」というもっともらしい言い訳になびいてしまい何もせず帰ってきた。

夕食は出掛けるまえに下準備しておいたゴーヤーチャンプルー。夏らしくなってきて美味しそうなゴーヤーがスーパーに並ぶようになってたのしみにしていたゴーヤーチャンプルー。水切りのすんでいる豆腐からちゃっちゃと炒める。つづいてゴーヤー。で、豚肉。溶いた卵をまわしいれて10秒待って大きく混ぜたらできあがり。量の加減が分からなくてたくさん出来てしまったけど、フライパンに残ってしまった分は明日の弁当にすればいい。

頬張ってから気づいたけど味付けを忘れていた。塩を取りに立ちあがろうと思いつつ、箸を構えたままゴーヤーの苦味だけをまとった豆腐を咀嚼しながら一人でじっとチャンプルーの皿を見つめていた。ふと、いつまでこんな生活をするんだろうと思ったら心細くて心細くて涙が出た。

塩を振ればおいしく食べられるんだと、泣きながら食べた。

 

五月三十一日。

週末にほとんど初対面の人とゆっくり話す機会があり、恋人がいると言うと「どこが好きなんですか」「なんで好きなんですか」という、まあ月並みで当たり障りのない質問をされた。それであらためてなぜだろうと考えたのだけど、簡潔なこたえにならなかった。

私は舞茸が好きだけども、その理由なら香りが良くシャキシャキとした歯ごたえが美味しいからですねとすぐに答えられる。すらすらと舞茸のことは話せて恋人のことは話せない。嘆かわしい事態ではないですか?

舞茸は私が一方的に選ぶだけの関係だけど、恋人は互いに一方的なものではないから、仕方ないのかもしれませんね。

 

六月一日。

先日、近所の天ぷら屋で鶏レバーのソース漬けというものをいただいた。あ、これなら私でも作れると分かったのでさっそくスーパーで鶏レバー(しかも20%オフになっていたもの)を購入した。

とっても安いから美味しくできちゃったらこれは定番だなァ、と良い気になってトレイの中身をまないたに広げたらコロッと弾力のある塊がレバーをズルリと引きずりながら登場した。まさに臓器。

まずはまないたを離れ、両手でiPhone持ちググった結果、鶏のレバーはハツ(心臓)とつながっているもので間違いないそうだ。え、ニワトリの構造どうなってんの、と気にならないでもなかったがこれ以上知ることは調理に支障を及ぼす。私はすみやかにまないたに戻り、心と興味を殺し、食材として切った。

最終的に鶏レバーはおいしい甘辛煮になりました。ときには興味を殺すことも必要です。

 

カンタン4ステップで滝沢カレンになる!(文章が)

さあ、たったの4ステップです。もとになる文を準備しましょう。

 

1. 文をひとまとめの形容詞にする

文をドカッとまとめて名詞に乗せます。

例:
は、私にたくさんの味方がいることに自分の誕生日が来ないと気付けない
たくさんの味方がいることに自分の誕生日が来ないと気付けないは、

前後の文の主語が同一の場合はこれでひとつにまとめましょう。このとき主語と動詞が離れていきますが、宇宙の端と端に置いちゃうくらいの気持ちで離します。大丈夫。滝沢カレンはむしろ近づいています。

 

2. 文をつなげる

"〜つつも"、"〜ながら"、"〜けど"、"〜にして"、"〜という"、"〜ので"。

ありとあらゆる接続を活用し、ひたすらに句点を減らし、文をつなげます。分かりやすさとかいうものはべつの世界のことだから大丈夫。

 

3. すべての言葉を装飾する

すべての単語を装飾します。
さらにその装飾語をあまり話し言葉では聞かない表現に置きかえ文をより長くします。

そのとき語順や助詞を整理したくなりますが、思いついたそのままの語順や助詞であることでより滝沢カレンらしい迷宮じみた文章に。

a. 副詞をかならずプラス
例: 不思議な → なんとも不思議な

b. 擬音をちょっとプラス
例: 行き着いた → ノソノソと行き着いた

 

 

4. オプションで調整する

モノマネのセオリー。最後にだれでも分かる特徴を加えます。あくまで相手には丁寧に、品のある、というのが重要なポイントです。

a. 唐突な断定形を混ぜる
例: でしょうが → だろうが

b. 文末の語りかけを惜しい熟語にする(言いたいことは分かる)
例: お楽しみに → 覚悟しといてください

c. 無生物主語構文を導入にする
例: 本日は晴天です → 太陽が惜しみなく大地を照らします本日は

d. 音の一部が同じだけで意味はまちがった慣用表現に置きかえる
例: 何の考えもなく座る → 何食わぬ顔で座る

e. まちがった接続助詞、副詞に書きかえる
例: 仕事 → 仕事さながら

f. オーバーにする(そこを?!みたいな部分を)
例: 声を大にして → なにもかも大にして

 

 

このエントリのために滝沢カレンのinstagramをもとにスプレッドシートを作成していて特徴的だと思ったのが、動詞、副詞、慣用表現の豊かさ。同じ言葉ばかりが頻出するというより語彙は豊富だった。ただ豊富すぎて装飾過多で読みにくくはある。

動詞の場合は、動きをふたつ重ねた動詞を用いるのが好きみたい。たとえば「動く」は使わない。「動く」に「まわる」を足した「動きまわる」を使う。

副詞や慣用表現も豊富に使っているのだけど、残念ながら70%くらいの頻度(体感です)で意味を間違えて使っている。
おそらく本来の意味を知らないまま、音の似た他の知っている言葉の意味から推測して「そうじゃないかな〜」という感覚で用いている。この音の似た言葉と間違えるってのがかなり面白いと思ったんだけど、なぜそんなことをこの頻度で起こすのか、その理由は彼女のあの言語で発信されるのみならば解明は困難を極めるだろう。類似事例はあるのか。

副詞や慣用表現などの装飾で意味が間違っているだけであれば、骨子は伝わるのだけども接続助詞を独自のルールで用いることがあり、そのときは意味が一瞬迷子になる。あの中毒性は接続助詞の誤用によるトリップ感に宿っているのではないか。

 

またこれも確かではない(というかすべて確かではない)のだけど、彼女にもコンディションというものがあるらしくすべてのポストにポエティックな表現が見られるわけではない。ちなみに彼女のポエティックな表現においては無生物主語構文にとくに触れたい。

無生物を主語にするときはとくに筆が乗っているのか、副詞や慣用表現がより暴走している場合が多い。おそらく、普段は、いちおう慎重に、丁寧に、副詞や慣用表現を用いているのだろう。そう考えると彼女の不思議な言葉をいちいち愛しく思ってしまうという気持ちをお分かりいただけるでしょうか。

 

こちらの解析がおもしろかったので

洗濯物

当たり前の話なのだけど、一人暮らしをしていて家族がいないと「これだれの服〜?」みたいなことが起こらないな、と思いながら乾いた洗濯物を畳んでいる。実家の母も洗濯物を畳むたび「だれの服〜?」と子供たちを呼んだ昔を思い出したりするだろうか、しないだろうな! 母は家事ごときで感傷に浸るような人ではないのだ! さあ、もう寝ましょう!

食事と生活 2

五月十九日。

果物の皮を剥くときは原石から宝石を切りだすような気持ちでカットしている。皮を剥くのではなく、塊からみずみずしい果肉を取りだすイメージ。

宝石は面が多いほど輝きが増すけど、果物はなるべく少ない面で最大の果肉を得るようなカットがふさわしい。しなやかな曲面に包丁を滑らせるとやわらかな宝石が姿を現す。健やかに熟れた果物はほんとうに美しい。

 

五月二十日。

教わった覚えはないけれどゆでたまごにはコツがある。卵の尻(トレーの下側になっている方ですね)にスプーンをぶつけて小さなヒビを入れてから鍋に移したら薄く水を張り火にかけて五分、火を消して三分放置。

湯を捨てて水で洗って手で持てる温度まで冷ましたら卵を少しずつまわしながら作業台にコツコツ当ててぐるりと全体の殻を砕いてしまう。そうしておいてまずは卵の尖っている上と下から剥く。それから腹巻のように残った殻をくしゃくしゃと外せばツルリと綺麗なゆでたまごが食べられる。

尖った上下の殻を剥くのを最後に残してしまうと、プルプルの白身を殻に持っていかれてしまうことに気づくのに二十九年かかった。長かった。

 

五月二十一日。

気づいたときには冷蔵庫から出したままずいぶん時間が経っていて、すっかり室温に戻ったヤキソバの麺は冷えていたときの固さを失い、薄いビニール袋のなかをくにょくにょと油で滑っていた。どうせ焼くのだからとビニール袋を破りそのままフライパンに投入したところ、麺はスルリとほぐれ蒸すための水もいらなかったのでカリッと香ばしいヤキソバが焼けた。

母がこのように発見したかどうかは知らないが、実家のヤキソバのコツは麺を室温に戻すことだった。いまでも私は麺をいれたらすぐに蓋をして、同時に炒める野菜の水分だけで麺を蒸してほぐして焼いてしまう。

小さい頃の大きなホットプレートで作るヤキソバは実家の休日の昼食の定番だった。姉弟で母を手伝った。なかでも粉ソースを振りかける作業は特別で、だれがもっとも広範囲に均一に粉を振りかけられるか姉弟で競った。いまでも粉の袋を開けるときから、今日はうまく振りかけられるかなって、一瞬、子供の頃の緊張が胸をよぎってしまうんだ。