どうも、rintaroです。
日曜日に瀬戸市のせともの祭に遊びに行ってきました。
毎年九月の第二土曜と日曜に開催されている、器の廉売あり作家の出店あり屋台ありという陶器の町のお祭りです。
祭りに行く地元の人は毎年毎年器を買っちゃうんでしょうか。食器棚がすごいことになっちゃうよね!
瀬戸に住んでいる友人が誘ってくれたのでさっそく電車でゴー。
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どうも、rintaroです。
ひとりで散歩しているときに周囲に人もいないことを確認して、指でつくった輪をかざして丸く切り取った雲や空の色を見るんです。私が写実主義の画家だったらあの雲を何色で塗れば描けるのか。分からないんですよ。空全体を見上げているだけだと何色なのか、分からない。それが切り取ってみると色が分かる。
こそこそと切り取って分かったことですが、空は思っている以上に灰色です。さまざまな色味の灰色です。カラーチャートで言えばグレイッシュトーン。スモーキーなピンク。シックなネイビー。そういうのが空の色です。
全体を見なければ分からないこともあって、一部を切り取らないと分からないこともあるな、と思います。
どうも、rintaroです。
めっちゃいまさらながら腹筋ローリストに仲間入りしました。ワーイ。
下腹どころか腕も下半身も締まって身体が薄くなると聞いて、即、買いました。
とはいえ、立ったところからコロコロできるわけもなく膝立ちスタートです。
腹筋ローラーをおえたら筋肉を称えつつコーヒーを淹れアイスを舐めています。
腹筋が筋肉痛になることは想定していたけど、腕さえも強烈な筋肉痛に見舞われてしまいタイツを広げて尻を包むこともままならぬ朝を迎えました。
筋肉痛になるということは効いているということなんじゃないかと、ほくそえみながら今日もコロコロしました。
どうも、rintaroです。
ついに、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」(1925年)を読みました。
60歳になるまで翻訳しない、と村上春樹が宣言した(結局57歳で翻訳した)ことに倣い、私も読みたいという衝動が読めるという感触にかわるまで、じっと待っていた。
その村上春樹の翻訳はすばらしく1920年代の話とは思えないリアルタイム感があった。
1920年代という時代は学んでいなければコンテクストを共有できないほど昔のことだから本来なら物語から取り残されてもおかしくない。村上春樹の翻訳は、ニューヨーク郊外にならこういうセレブもいるのかもしれないな、とすんなり受けいれられる。
不必要な部分で昔の物語だと感じさせられない、すばらしい翻訳だった。
物語はニューヨーク郊外に越してきたばかりのニックの視点で語られる。
隣の邸宅でゴージャスなパーティーを開催するミステリアスなセレブ、ジェイ・ギャツビーと知りあいになる。そこにそれはそれは美しい人妻デイジーが登場。はたしてギャツビーは何者なのか。なぜそんな豪華なパーティーをひらくのか。
スタートからギャツビーの魅力はフルスロットル。
完全無欠の微笑みに華麗なエスコートをサラリとこなす紳士である一方、デイジーをまえにした途端の繊細さや逡巡といった可憐な脆さ。好きにならざるをえない。
ああ、私もオールド・スポートと呼ばれたい。
そんなギャツビーからあふれる強力なロマンチックに包まれていたけど、そのロマンはギャツビーがひとり囚われている虚構にすぎなかった。
この物語そのものがギャツビーのそのロマンのなかで展開されるものじゃなかったのかと、突然一線を引かれたような衝撃だった。デイジーもニックも、ギャツビーの求めているものは実現しないと知っていて、ギャツビーのロマンは続かないのだとはっきり分かってしまった時点で私もギャツビーの傍にはいられなくなった。
ギャツビーが求めていたのはデイジーですらなく、彼が作りあげたロマンの続きだった。そのことにギャツビー自身も気づいたように輝きを失っていく。
だれかが自分のロマンを失うところを見てしまった、と思った。
1920年代の勉強もなく 「グレート・ギャツビー」を読んだけど、作家や時代や小説としてどのような背景を持っているのか、「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読んでまた読みなおしたい。