どうも、rintaroです。
ついに、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」(1925年)を読みました。
60歳になるまで翻訳しない、と村上春樹が宣言した(結局57歳で翻訳した)ことに倣い、私も読みたいという衝動が読めるという感触にかわるまで、じっと待っていた。
その村上春樹の翻訳はすばらしく1920年代の話とは思えないリアルタイム感があった。
1920年代という時代は学んでいなければコンテクストを共有できないほど昔のことだから本来なら物語から取り残されてもおかしくない。村上春樹の翻訳は、ニューヨーク郊外にならこういうセレブもいるのかもしれないな、とすんなり受けいれられる。
不必要な部分で昔の物語だと感じさせられない、すばらしい翻訳だった。
物語はニューヨーク郊外に越してきたばかりのニックの視点で語られる。
隣の邸宅でゴージャスなパーティーを開催するミステリアスなセレブ、ジェイ・ギャツビーと知りあいになる。そこにそれはそれは美しい人妻デイジーが登場。はたしてギャツビーは何者なのか。なぜそんな豪華なパーティーをひらくのか。
スタートからギャツビーの魅力はフルスロットル。
完全無欠の微笑みに華麗なエスコートをサラリとこなす紳士である一方、デイジーをまえにした途端の繊細さや逡巡といった可憐な脆さ。好きにならざるをえない。
ああ、私もオールド・スポートと呼ばれたい。
そんなギャツビーからあふれる強力なロマンチックに包まれていたけど、そのロマンはギャツビーがひとり囚われている虚構にすぎなかった。
この物語そのものがギャツビーのそのロマンのなかで展開されるものじゃなかったのかと、突然一線を引かれたような衝撃だった。デイジーもニックも、ギャツビーの求めているものは実現しないと知っていて、ギャツビーのロマンは続かないのだとはっきり分かってしまった時点で私もギャツビーの傍にはいられなくなった。
ギャツビーが求めていたのはデイジーですらなく、彼が作りあげたロマンの続きだった。そのことにギャツビー自身も気づいたように輝きを失っていく。
だれかが自分のロマンを失うところを見てしまった、と思った。
1920年代の勉強もなく 「グレート・ギャツビー」を読んだけど、作家や時代や小説としてどのような背景を持っているのか、「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読んでまた読みなおしたい。