へもか

憶測以上の確定未満

占いが嫌いだった

どうも、rintaroです。

中学生くらいの頃だったか、動物占いが大ブームになった。

休み時間になると教室では動物占いの本を囲んで女子たちが輪をつくった。
当時の私はブームに乗っかるのが下手で(それはいまでもそうだけど)、「◯◯はサルだよ!」と勝手に私のことを占う友人*1の声に「ウッキキ〜!」などと答えるユーモアも持ちあわせていなくて(これも現在もない)、バカバカしいと思ったままの生返事をしていた。

なるほどクールだったのか、というとクールではなかった。サルというのは納得できず帰宅してからインターネッツで検索するただの根暗だった。

血液型占いや星座占いやそれに夢中になる人のことも小馬鹿にした時期もあった。当たっていると思わせる文章術の巧さのようなものを味わうなどというこまっしゃくれたこともした。

最終的にノータッチ、接触してもスルーというスタイルに落ち着いた。

が、ここのところ人が占いに触れて何か言っているのを見ていると、それは自分の生活や人生に関して自分とは違う視点を得ているように思える。他人の視点だったりもっと長期の視点だったり広域の視点だったり。

複数の視点や視野を持つことは大事だと分かっているけど難しいから。
それが占いを通じて日常的に鍛えられるとしたら、占いもちょっとおもしろいなと思っている。

*1:思えばあれは輪に入れない私(本人は"入ない"を選んでいる気満々)を気遣って声をかけてくれたのではないか。まったく気づいていなかった。私は阿呆か。

覚王山にシャルキュトリーのお店が2店舗あるのでソーセージ買ってきました

 

どうも、rintaroです。

7月に覚王山AkitaHamの物販店ができたことで、池下にあるMetzgerei Inoueと合わせてシャルキュトリーのお店が2店舗近接していることに!加工肉充実!

せっかくなので両方のソーセージを買いにいきました。

 

 

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会社までの風景

日が陰ったので期待して空を見上げると、わたあめよりも頼りない雲の端が太陽にかかっているだけで、地面に目線を落とすのとほとんど同時に強烈な日射しが戻ってきて地面で赤黒く干からびかけていたミミズは金属質な光沢を帯びた。私を追い越していく車のナンバーで引き算を(さ39-69だから-30、しかしサンキューロックなのか、もしかして?)しながら、ここで車にむかって左腕を伸ばして親指を立てさえすれば会社ではないどこへでも行ける可能性が縁石を隔てて存在しているという考えに一瞬支配されるがそれも暑さが押しやった。出社したら会社の冷蔵庫で冷えているウィルキンソンの炭酸を飲もう。

受信側発信側

やっぱずっとだめだしされているとあれもこれも何をやっても嫌われるんじゃないかビクビク縮こまって呼吸が浅くなって視野が狭くなって暗くなってどんどんだめになる。

でも悲しいかな、何をやってもきっとなんらかのだめだしはされるものだから、だめだしされるんじゃないかって怯えること自体すでにズレていて、否定されたショックを後生大事に抱きしめていないで、パリッと切りかえて「それならばどうすべきか」に集中できるのが大人だよなって、やっと思うわけです。

 

逆に、わたしはそれで自分の言葉でひとをだめにするんじゃないか責任を負う勇気もなくてほとんど他人にだめだしができなくなっていて、肯定するか、肯定できなければ必要な距離をおく。

たぶんだめだしというのは、発信側の複合的な能力と受信側の成熟度に信頼関係の三つが噛みあって初めて有効に発動しうるもので、相当にハイレベルなことなんです。

いまわたしにできそうなのは、してもらっていることに気づこうとよく見渡してうれしかったと言葉にすること。

わたしはできれば褒められたいし、わたしは他人にされたいことを他人にしたいからです。

若いなぁって

どうも、rintaroです。

いまジョン・アーヴィングの「熊を放つ」(1968年)を読んでいます。中学生のときに観た「サイダーハウス・ルール」の原作者と知って手にとりました。こちらにも林檎畑が出てくるよ。翻訳は村上春樹

春のウィーン、たまたま出会った二人の大学生男子がひとつのバイクにまたがって旅をはじめる、タフそしてワイルドというほど格好良くもなく、行き当たりばったりひたすらオフビートでチルアウト。

 

読みにくい本でもないのにスムーズに進みません。トホホ。
通勤電車で読むにはこの脱力したリズムに乗るのが難しいからかなと思ったけど、二人の若さと自由をどんなポジションで受けとめればいいのか決めかねて消化不良をおこしているからじゃないかなと思った。

自由を謳歌するといった前向きな姿勢ではなく、成行きに任せるまま垂れ流されていくたっぷりとした自由や若さを前に考えこんでしまう。

自由や若さを"謳歌する"というのは限られたものだと知っている人の言うことで。

二人は先のことを考えていないのか、あえて考えようとしないのか。考えることが老いの始まりだと知っているみたいに、あえて考えようとしないのか。

 

この時間が永遠には続かないと分かっているのに限られたものと実感できないでいる。
わたしの現在は、いくつになってもそんなかんじだ。

若さに責任を押しつけようとして「若いなぁ」って思ってしまった気がした。

 

それにしても自由と若者も相性がいいけど、自由と大人も格好良くないですか。

 

 

熊を放つ

熊を放つ