どうも、rintaroです。
いまジョン・アーヴィングの「熊を放つ」(1968年)を読んでいます。中学生のときに観た「サイダーハウス・ルール」の原作者と知って手にとりました。こちらにも林檎畑が出てくるよ。翻訳は村上春樹。
春のウィーン、たまたま出会った二人の大学生男子がひとつのバイクにまたがって旅をはじめる、タフそしてワイルドというほど格好良くもなく、行き当たりばったりひたすらオフビートでチルアウト。
読みにくい本でもないのにスムーズに進みません。トホホ。
通勤電車で読むにはこの脱力したリズムに乗るのが難しいからかなと思ったけど、二人の若さと自由をどんなポジションで受けとめればいいのか決めかねて消化不良をおこしているからじゃないかなと思った。
自由を謳歌するといった前向きな姿勢ではなく、成行きに任せるまま垂れ流されていくたっぷりとした自由や若さを前に考えこんでしまう。
自由や若さを"謳歌する"というのは限られたものだと知っている人の言うことで。
二人は先のことを考えていないのか、あえて考えようとしないのか。考えることが老いの始まりだと知っているみたいに、あえて考えようとしないのか。
この時間が永遠には続かないと分かっているのに限られたものと実感できないでいる。
わたしの現在は、いくつになってもそんなかんじだ。
若さに責任を押しつけようとして「若いなぁ」って思ってしまった気がした。
それにしても自由と若者も相性がいいけど、自由と大人も格好良くないですか。