へもか

憶測以上の確定未満

腹筋ローラーを買った

どうも、rintaroです。

めっちゃいまさらながら腹筋ローリストに仲間入りしました。ワーイ。

下腹どころか腕も下半身も締まって身体が薄くなると聞いて、即、買いました。
とはいえ、立ったところからコロコロできるわけもなく膝立ちスタートです。

腹筋ローラーをおえたら筋肉を称えつつコーヒーを淹れアイスを舐めています。

腹筋が筋肉痛になることは想定していたけど、腕さえも強烈な筋肉痛に見舞われてしまいタイツを広げて尻を包むこともままならぬ朝を迎えました。

筋肉痛になるということは効いているということなんじゃないかと、ほくそえみながら今日もコロコロしました。

だれかのロマンが終わるとき

 

どうも、rintaroです。

ついに、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」(1925年)を読みました。

60歳になるまで翻訳しない、と村上春樹が宣言した(結局57歳で翻訳した)ことに倣い、私も読みたいという衝動が読めるという感触にかわるまで、じっと待っていた。

その村上春樹の翻訳はすばらしく1920年代の話とは思えないリアルタイム感があった。

1920年代という時代は学んでいなければコンテクストを共有できないほど昔のことだから本来なら物語から取り残されてもおかしくない。村上春樹の翻訳は、ニューヨーク郊外にならこういうセレブもいるのかもしれないな、とすんなり受けいれられる。

不必要な部分で昔の物語だと感じさせられない、すばらしい翻訳だった。

 

物語はニューヨーク郊外に越してきたばかりのニックの視点で語られる。
隣の邸宅でゴージャスなパーティーを開催するミステリアスなセレブ、ジェイ・ギャツビーと知りあいになる。そこにそれはそれは美しい人妻デイジーが登場。はたしてギャツビーは何者なのか。なぜそんな豪華なパーティーをひらくのか。

スタートからギャツビーの魅力はフルスロットル。
完全無欠の微笑みに華麗なエスコートをサラリとこなす紳士である一方、デイジーをまえにした途端の繊細さや逡巡といった可憐な脆さ。好きにならざるをえない。
ああ、私もオールド・スポートと呼ばれたい。

そんなギャツビーからあふれる強力なロマンチックに包まれていたけど、そのロマンはギャツビーがひとり囚われている虚構にすぎなかった。

この物語そのものがギャツビーのそのロマンのなかで展開されるものじゃなかったのかと、突然一線を引かれたような衝撃だった。デイジーもニックも、ギャツビーの求めているものは実現しないと知っていて、ギャツビーのロマンは続かないのだとはっきり分かってしまった時点で私もギャツビーの傍にはいられなくなった。

ギャツビーが求めていたのはデイジーですらなく、彼が作りあげたロマンの続きだった。そのことにギャツビー自身も気づいたように輝きを失っていく。

だれかが自分のロマンを失うところを見てしまった、と思った。

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 
ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

 

1920年代の勉強もなく 「グレート・ギャツビー」を読んだけど、作家や時代や小説としてどのような背景を持っているのか、「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」を読んでまた読みなおしたい。

【Bluetoothイヤホン】Mpow Magnetoを買いました

どうも、rintaroです。

以前「Bluetoothは断線しない」というエントリを書いたけど、断線した。
左右のユニットをつなぐケーブルが断線したらしく左だけ音がしなくなった。

購入からわずか1年、しかもそのうち半年の秋冬はヘッドホンを使っていて出番がなかったのに、断線。心底うんざりしたけど消耗品と割り切って安いBluetoothイヤホンを買うことにした。

 

Mpow Magnetoを買いました

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小さなことに順々に集中する

どうも、rintaroです。

サルサソースを作ろうとおもってトマトを、皮をまないた側ではなく上に向けて置いてみじん切りにしようとしたら包丁の刃が入らなかったので先程包丁を研いだ。研ぐのが上手なわけではないので少し鈍らになったくらいでこまめにやるのだ。

砥石は昔ながらの朱色の砥石で使うまえにたっぷり水に浸けないといけないし、研いでいるとザラッとした赤茶色の水がそこらじゅうにこぼれて金属臭が指に染みこむ。

砥石に対しての刃の角度と砥石から刃を起こした角度を一定に固定したまま砥石全体を使うように大きく前後に研ぐことが基本だけど、斜めに構えたモノを前後させる単純作業は狂いやすい。腕の振りがそれなりに大きいからだろうか。丸まっていた背中を広げて腹に力が入ったことを感じながら足を肩幅に開いて研ぎつづける。単純作業なのでつい考え事をしてしまうのだけどそうするとすぐ乱れる。姿勢を正す。刃にあてた指の腹の皮を削ぐように手前に刃を引く。角度を保つ。往復する数を数えて切っ先から柄のほうへ順番に研いでいく。

今日は包丁を研ぐねと母に伝えてしまったけど、宣言せずこっそり夜中に研いで、翌朝切れ味が良くなったことに気づいてもらうのも楽しい。また姿勢を正す。研ぐ。

さて、刃をかえして研ぐと、始めたときとは違って刃が砥石に吸いつくように感じる。気がするだけかもしれないけど、そう感じたときは十分使える程度に研げているので良しとする。

すごいことなんだけど、研ぐことに没頭できたときはホントに綺麗に研げている。当然かな。あまりに正直ですごいとおもう。

単純作業に没頭してしまいたいときは、単純作業に没頭するのが難しい。それでも姿勢を正すという小さなことに順々に集中していると最近はいつのまにか忘れることができる。

明日はトマトが綺麗に切れるとおもう。

占いが嫌いだった

どうも、rintaroです。

中学生くらいの頃だったか、動物占いが大ブームになった。

休み時間になると教室では動物占いの本を囲んで女子たちが輪をつくった。
当時の私はブームに乗っかるのが下手で(それはいまでもそうだけど)、「◯◯はサルだよ!」と勝手に私のことを占う友人*1の声に「ウッキキ〜!」などと答えるユーモアも持ちあわせていなくて(これも現在もない)、バカバカしいと思ったままの生返事をしていた。

なるほどクールだったのか、というとクールではなかった。サルというのは納得できず帰宅してからインターネッツで検索するただの根暗だった。

血液型占いや星座占いやそれに夢中になる人のことも小馬鹿にした時期もあった。当たっていると思わせる文章術の巧さのようなものを味わうなどというこまっしゃくれたこともした。

最終的にノータッチ、接触してもスルーというスタイルに落ち着いた。

が、ここのところ人が占いに触れて何か言っているのを見ていると、それは自分の生活や人生に関して自分とは違う視点を得ているように思える。他人の視点だったりもっと長期の視点だったり広域の視点だったり。

複数の視点や視野を持つことは大事だと分かっているけど難しいから。
それが占いを通じて日常的に鍛えられるとしたら、占いもちょっとおもしろいなと思っている。

*1:思えばあれは輪に入れない私(本人は"入ない"を選んでいる気満々)を気遣って声をかけてくれたのではないか。まったく気づいていなかった。私は阿呆か。

マキネッタで淹れるアイスソイラテ

 

どうも、rintaroです。

ビアレッティのブリッカをプレゼントしてもらったので、喜々としてエスプレッソを淹れています。

エスプレッソをつかってソイラテを作ったので、レシピをメモっておきます。

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