夫から「クソと言わないように」と注意されつづけている。もう何年も注意されている気がするけど、つい言ってしまう。もはや年齢的にも望ましい言葉使いとは言いがたく、使わないほうがいいなと私も思っているのだけどつい口から出てしまう。
原因に立ち戻った根気強い治療が必要だろう。クソ発言の核心に迫りたい。
思いかえすと、程度を強調するクソは言わなくなってひさしい(e.g. クソほど退屈)。これは言い換えの容易なクソだったから使わなくなったのではないかと考えられる。安易なクソは言わなくなっていたのだ。偉い。
現在もクソと言ってしまうシーンは、自身のボキャブラリが貧弱なためクソに頼っているのではないか。いわばクソ一強、誇れる状況ではない。
クソを分類し適切な言い換えをそれぞれ用意しておけば、程度のクソと同じように治る可能性がある。
期待と現実との剥離に直面した瞬間のクソはよくうっかり口から出ているのではないか。これはその原因により複数の言い換え候補が必要になる。
原因が自分の場合はそのまま「しまった」や「無念」で良いだろう、私が悪いのだから。原因が他人の場合は期待を裏切られ失望しているのだから「ガッカリ」がちょうどいい。そこまで心構えができていなかったときは「ナッ(何ッ?の意)」くらい短いものも良さそうだ。
本来、他人に期待することが間違っているのだけど、社会には様々な人間がいて期待未満の予測をも裏切られるのだから仕方ない。
これを踏まえると、クソと言う人はそのたび小さく裏切られて失望しているんだ。かわいそうになってきた。
常軌を逸した最低最悪な事象もやはりクソと言うしかなかった。どうしてもそういう人間や出来事や社会は存在する。これはきちんと怒りを込められる「不愉快」や「ゲーッ(嘔吐)」がいいだろう。長すぎるフレーズは使える場面が限られるかもしれない、ただ深く息を吐いたあとの「見るに堪えない」は怒りより複雑な憤りを表現できる。
シンプルなクソは「残念」で良いだろう。
そもそもクソと言わざるを得ないような事象や環境に身を置かなければいい。
想像してみよう。いらない仕事を増やす会社の先輩、不快な通勤電車、問答無用の物価高、何十年も停滞している経済、人口減に本気で取り組まない日本の政治、いまだにジュラシックパークが存在しない現実。現実は実際にクソなので、クソのない環境を求めることは不可能だ。
結局、いちばんクソと言ってしまうのは急に天候が荒れたとか、電車遅延のせいで狙った急行に乗換えられなかったとか。自分ではどうにもできない権外の出来事が多いことに注目したい(ストア派)。
天気予報を見て折りたたみ傘を持ったり、急行に乗れなくても焦らずに済む時間に家を出たり、すこしの余裕を持っていればクソと言わなくて済んでいるのではないか。
言いかえれば、クソと発言するときは余裕のなさの露呈に他ならない。
余裕のない大人。あまりかっこよくない響きですね。余裕のある大人になれることを願ってクソ発言を減らしていきたい(ここまで1,280文字)。