一月の読んだ本から一冊
23冊借りてそのうち6冊読み終えました。冊数を増やしたければマージンたっぷりのビジネス本や速度の出る小説を増やせばいいだけなので数は目標ではないですが。うーん、なにかちがう目安がほしい。
一月読んだ本から一冊選ぶならば「十五匹の犬」をお勧めします!
マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻
マルジナリアとは、本の余白(マージン)に書き込まれた痕跡のこと。
そのひとつとして著者は”索引”を自作しているという。え、目次があるのになぜ索引が必要なんだと不思議かもしれないけれど、レシピ本に材料別の索引があれば冷蔵庫のキャベツで何がつくれるかすぐ分かる。デジタルの⌘+F(検索)に慣れた私の味方である。
索引は検索だけでなく、著者がどの単語をピックアップしたのか、その本で重要とされるキーワードが把握できる。さらに馴染みのある領域の本なら索引から本のストーリーがわかる"本の成分表示"たりえるという。
自分の考えたこと感じたことの記録としてのマルジナリアを施せば、本は読むだけでなく使いこむものになる。その感覚の入口は、ペンを持って本を開くこと。楽しみかたの分からなかったものの楽しみかたを知るワクワクとした新年にふさわしい一冊だった。
私のマルジナリアがなにかの着想をいつかの私に与えることをたのしみに、まずは一冊書き込みながら読むことにする。
記憶のデザイン
現在の情報環境のなかで、どのように自分の記憶を世話できるか(p.93)
というのがテーマです。
現在の情報環境として、1. いつでもどこでもだれでも情報にアクセスできる、2. SNSで断片的な投稿を浴びるように見ている、3. フェイクニュースがはびこっている、といったような特徴があげられている。
結構なSNS人間としては、2.が記憶にどんな影響を与えているのか気になる。著者は脈絡のない断片的な情報を浴びつづけることを、
非意識的想起とどこか似ている。(p.140)
と言う。思い出そうとして記憶にアクセスするのではなく、あ、そういえば、で思考がジャンプするかんじ。確かに、あのジャンプを期待しているために、異物のような断片的情報の摂取がやめられないのかもしれない。
サカナとヤクザ ── 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う
農業と漁業、どちらもおなじ第一次産業だとあまり深く考えていなかったけど、農業は土を耕し作物を育て収穫するのに対し、漁業は魚介類を海から奪い取る荒々しく豪放な産業といえる。ま、そういう気っ風なのでヤクザとの関係も長く続いている。
密漁の規模は不確かではあるものの、持続可能な漁業という取組みを脅かす程度には十分らしい。ヤクザはいま儲かればいいので根こそぎやっていく。
密漁はなくならない。ウニやナマコやシラスウナギと各種密漁があり、採算が合わなくなれば暴力団は勝手にやめる。あくまでビジネスなので儲からない仕組みにすればいいのに、刑罰は軽すぎてやるだけ儲かるのだからなくならない。
密漁品を買い叩く業者、都合の良いときは擦り寄って用が済めば平気で被害者面をする人たちが市場へ流通させ、なにも知ろうとしない消費者は「いいのがはいったよ」でよろこんで密漁品を食べている。
結局いちばん怖いのは「普通の人」なんだ。
地下世界をめぐる冒険 ── 闇に隠された人類史
何も見えない暗闇を体験したのはいつだろう。
もう二年前になるけど、妹と行った熱海の横穴式温泉”走り湯”の洞窟だった。確かに瞬きしているのに暗闇では瞼の開閉に関わらず景色が変わらなくて、眼球があるはずの場所はただの二つの穴になったようだった。暗いだけで圧倒されたなあ。
十九世紀のパリでは夜遅くにマンホールをあけ蝋燭を掲げて下水道を散策することが流行り、あらたな遊歩道としてそこはひとつの社交場になったらしい。いつも身近にあるのに別世界の地下は新鮮でおもしろかったんだろうな。
地下世界冒険の最大の危機はなんといっても迷子。
地下で迷子になるなんて考えただけでゾッとするけど、方向感覚を取り戻すため目や耳や鼻や毛穴から情報が流れこむような、すべてが鋭敏になるあの必死の感覚を味わいたい気もする。
迷子になったことはもう遠い昔ですぐには思い出せない。地上でいいので迷子やってみようかな。
最高の集い方: 記憶に残る体験をデザインする
もともと人とつるむことに苦手意識があり人の群れをバカにしていた、いやしているけど、それは人の輪をつくる力に憧れながら自分にその能力がないことを再確認させられるのがいやで避けているのではなかったか。
人生とは人との集いそのものです。(p.8)
著者が冒頭で断言するとおり生きるうえで集いは避けられないのだ。
おもしろいのは人が集まっているので自分が他人にどう見られるのかという自意識が生まれ、集まりの害となること。
ホストにとって集まりの難関のひとつである場を正しく仕切るべきシーンで、自然体(チル)の流れに任せたくなるのは、参加者のためではなく自分がどう見られるのかばかり気にしているから! ああ、たしかに! 身に覚えのないひとなんているのだろうか。
ゲストなら成功談ではなく弱みを見せて語りあったほうが、その後の協力者を得られるのに、あれもこれもできると有能アピールしてしまうのも根は一緒だろう。
いろいろコツはあるけど、我が身可愛さが基準になっていないか問うだけでもずいぶんよくなる。
人の集まる空間というハードの話は個人的には大好きだ。どんどんしたい。人は空間に影響されるので集まりにはふさわしい空間というものがある。
実家で夕食が進むと気がつけば妹弟と母と狭い台所に集まりがちで、すこし不思議だったけど、あれは混み具合がちょうどよかったんだ。家族という集団に対してちょうどいい混み具合。
机の混み具合と話の盛りあがりは比例する(たぶん)。居酒屋やタイ料理店の賑やかに皿がひしめいている机では話は弾んでいたのではないか。
過去形で書いたらちょっと悲しくなっちゃった。人間が社会的動物であるかぎり集まることはなんらかの形で続く。集うことがむずかしいこのタイミングに、人はなぜ集うのか考えることができてよかった。
姿勢としてのデザイン ── 「デザイン」が変革の主体となるとき
大学時代の恋人は、デザインは見てくれをどうこうしているものじゃないんだ、という話を最後まで理解してくれなかったなと、あれから何年も経ったけどこういうデザインを再定義してくれる本に出会うたびに思いかえす。
デザインすることは職業ではなく姿勢である。(p.7)
デザインという概念、デザイナーという職業は、一つの専門職から、《個人や社会のニーズから離れることなくその関係においてプロジェクトを捉え、目の前の問題を解決し、無から有を生みだすという広く意味のある姿勢》へと認識を改める必要がある。(p.7)
上記のデザインビジョンは、一九四七年に出版された「Vision in Motion」でモホリ=ナジによって書かれている。著者は下記のようにデザインを再定義する。
いくつもの顔を持つデザインだが、それは一貫して「世の中に起こるあらゆる変化──社会、政治、経済、科学、技術、文化、環境、その他──が人々にとってマイナスではなくプラスに働くように翻訳する《変革の主体》としての役割」を担ってきた。(p.11)
現代はついにモダンインダストリアルデザインの原則「形態は機能に従う(Louis Sullivan)」が通用しなくなりつつある。ちょっとショックですらあるけど。スマートフォンがその姿一つで何百もの機能を備えているのだからすでに身近な話だ。そこでは見た目ではなく操作のしやすさ(UX)が重要性を増す。ポジティブに考えれば、デザインが表層的なメディア/スタイリングだという思いこみや弊害を覆すきっかけになるかもしれない。
豊洲市場の騒動でこれからの設計の難しさを感じたけど、さらにデザインは誠実でなければ好ましく感じられたりあるいは受け入れられなくなる。寝転び防止のベンチの不快感が取り上げられるようになったのはそういう流れのひとつなんだろうな。
十五匹の犬
暇をもてあました神々の遊びで人間の知性を与えられた十五匹の犬の話。
子供の頃に犬のカタログを夢中で読んだので、
俊足のウィペット(母)と大型狩猟犬ワイマラナーのあいだに生まれたリデアは、昔から神経質だった。(p.19)
という文でありありと姿が浮かぶ。浮かばない方は画像検索するといい。
犬たちは言葉や思考と犬らしい本能や欲望の混在に悩み苦しむ。犬らしくふるまおうとするほど本来の犬から遠ざかる犬。知性を楽しみ詩作に耽りながら自分の死と同時に詩が消滅すると気づき他者と交流しなかったことを悔いる犬。
犬たちの発見はそのまま人間に置き換えられる。
人間と長く意思疎通しながら暮らした黒くて(おそらく)大きなプードルとは、愛とはなにかいっしょに考えて読んでいた。犬はかしこいので愛がなにか知ろうとはしない。愛という言葉を口にした相手がどういう意味で使ったのかを問う。