レイモンド・カーヴァーは、読者をもてなし手取り足取りで物語を読ませてくれるようなことは絶対にしない。
目に見える(文章にされた)出来事や言動に物語はないのだ。
そこで何が起きているのか、確かに読んでいるのに物語はまったく分からないということが平気で起こる。出来事はきっかけに過ぎず、表情や行動はその結果に過ぎない。
物語は目に見えない(ほとんど文章にされない)人物の感情にある。
ばらばらの感情が一人の人物に詰めこまれて破裂しそうになっているのに饒舌な人物は登場しない。感情の無言の迸りとして行動があるだけで、彼らは自分の感情を掴む言葉は持たない。
持たないことがそれぞれの物語を生む。
自分の輪郭を溶かすように、感情を登場人物の感情に混ぜていくと、物語は初めて息づく。そのときやっとわたしは登場人物の感情(あるいは自分の感情)に気づくことができる。
物語が終わる頃にはどこまでがわたしのことでどこからが本に書いてあったことなのか分からなくなっているのだが。
そしてこれが現実となんらかわらないということに、本から顔をあげたわたしは慄く。
わたしの目に見えているものはなんだろう。
わたしはいつ、何に、輪郭を溶かしただろう。