へもか

憶測以上の確定未満

細切れ

電車内の目にとまった広告が元宇宙飛行士の文だった。宇宙で感じたことについて子供にあてて綴られた親しみやすい言葉が、とてもありがたいものですよと全力で広告に演出されていて目で文を追ううち急激にシラケてきた。最終的にはちょっとインド行っただけでやたらインド推しになるひととなにが違うんだろうかと思うくらいまでシラケた。

宇宙飛行士になって宇宙に行ったことはとてもスゴイ。でもそのスゴイひとの言うことだからスゴイっていうのは違うんじゃないか。スゴイことが多いけども。そこは思考停止しないで私たちが「スゴイかな」って考えつづけているべきところじゃないのか。と、考えていたら会社に着いてしまった。平日は時間が細切れになるからとりとめのないことをゆっくり考えられないよね。

食事と生活 3

五月二十八日。

謝る。謝らない。謝る。謝らない。交互に出る足にまかせて相手の家の最寄り駅まで行ったけど、「相手も謝罪を受け入れられる状態ではないだろう」というもっともらしい言い訳になびいてしまい何もせず帰ってきた。

夕食は出掛けるまえに下準備しておいたゴーヤーチャンプルー。夏らしくなってきて美味しそうなゴーヤーがスーパーに並ぶようになってたのしみにしていたゴーヤーチャンプルー。水切りのすんでいる豆腐からちゃっちゃと炒める。つづいてゴーヤー。で、豚肉。溶いた卵をまわしいれて10秒待って大きく混ぜたらできあがり。量の加減が分からなくてたくさん出来てしまったけど、フライパンに残ってしまった分は明日の弁当にすればいい。

頬張ってから気づいたけど味付けを忘れていた。塩を取りに立ちあがろうと思いつつ、箸を構えたままゴーヤーの苦味だけをまとった豆腐を咀嚼しながら一人でじっとチャンプルーの皿を見つめていた。ふと、いつまでこんな生活をするんだろうと思ったら心細くて心細くて涙が出た。

塩を振ればおいしく食べられるんだと、泣きながら食べた。

 

五月三十一日。

週末にほとんど初対面の人とゆっくり話す機会があり、恋人がいると言うと「どこが好きなんですか」「なんで好きなんですか」という、まあ月並みで当たり障りのない質問をされた。それであらためてなぜだろうと考えたのだけど、簡潔なこたえにならなかった。

私は舞茸が好きだけども、その理由なら香りが良くシャキシャキとした歯ごたえが美味しいからですねとすぐに答えられる。すらすらと舞茸のことは話せて恋人のことは話せない。嘆かわしい事態ではないですか?

舞茸は私が一方的に選ぶだけの関係だけど、恋人は互いに一方的なものではないから、仕方ないのかもしれませんね。

 

六月一日。

先日、近所の天ぷら屋で鶏レバーのソース漬けというものをいただいた。あ、これなら私でも作れると分かったのでさっそくスーパーで鶏レバー(しかも20%オフになっていたもの)を購入した。

とっても安いから美味しくできちゃったらこれは定番だなァ、と良い気になってトレイの中身をまないたに広げたらコロッと弾力のある塊がレバーをズルリと引きずりながら登場した。まさに臓器。

まずはまないたを離れ、両手でiPhone持ちググった結果、鶏のレバーはハツ(心臓)とつながっているもので間違いないそうだ。え、ニワトリの構造どうなってんの、と気にならないでもなかったがこれ以上知ることは調理に支障を及ぼす。私はすみやかにまないたに戻り、心と興味を殺し、食材として切った。

最終的に鶏レバーはおいしい甘辛煮になりました。ときには興味を殺すことも必要です。

 

カンタン4ステップで滝沢カレンになる!(文章が)

さあ、たったの4ステップです。もとになる文を準備しましょう。

 

1. 文をひとまとめの形容詞にする

文をドカッとまとめて名詞に乗せます。

例:
は、私にたくさんの味方がいることに自分の誕生日が来ないと気付けない
たくさんの味方がいることに自分の誕生日が来ないと気付けないは、

前後の文の主語が同一の場合はこれでひとつにまとめましょう。このとき主語と動詞が離れていきますが、宇宙の端と端に置いちゃうくらいの気持ちで離します。大丈夫。滝沢カレンはむしろ近づいています。

 

2. 文をつなげる

"〜つつも"、"〜ながら"、"〜けど"、"〜にして"、"〜という"、"〜ので"。

ありとあらゆる接続を活用し、ひたすらに句点を減らし、文をつなげます。分かりやすさとかいうものはべつの世界のことだから大丈夫。

 

3. すべての言葉を装飾する

すべての単語を装飾します。
さらにその装飾語をあまり話し言葉では聞かない表現に置きかえ文をより長くします。

そのとき語順や助詞を整理したくなりますが、思いついたそのままの語順や助詞であることでより滝沢カレンらしい迷宮じみた文章に。

a. 副詞をかならずプラス
例: 不思議な → なんとも不思議な

b. 擬音をちょっとプラス
例: 行き着いた → ノソノソと行き着いた

 

 

4. オプションで調整する

モノマネのセオリー。最後にだれでも分かる特徴を加えます。あくまで相手には丁寧に、品のある、というのが重要なポイントです。

a. 唐突な断定形を混ぜる
例: でしょうが → だろうが

b. 文末の語りかけを惜しい熟語にする(言いたいことは分かる)
例: お楽しみに → 覚悟しといてください

c. 無生物主語構文を導入にする
例: 本日は晴天です → 太陽が惜しみなく大地を照らします本日は

d. 音の一部が同じだけで意味はまちがった慣用表現に置きかえる
例: 何の考えもなく座る → 何食わぬ顔で座る

e. まちがった接続助詞、副詞に書きかえる
例: 仕事 → 仕事さながら

f. オーバーにする(そこを?!みたいな部分を)
例: 声を大にして → なにもかも大にして

 

 

このエントリのために滝沢カレンのinstagramをもとにスプレッドシートを作成していて特徴的だと思ったのが、動詞、副詞、慣用表現の豊かさ。同じ言葉ばかりが頻出するというより語彙は豊富だった。ただ豊富すぎて装飾過多で読みにくくはある。

動詞の場合は、動きをふたつ重ねた動詞を用いるのが好きみたい。たとえば「動く」は使わない。「動く」に「まわる」を足した「動きまわる」を使う。

副詞や慣用表現も豊富に使っているのだけど、残念ながら70%くらいの頻度(体感です)で意味を間違えて使っている。
おそらく本来の意味を知らないまま、音の似た他の知っている言葉の意味から推測して「そうじゃないかな〜」という感覚で用いている。この音の似た言葉と間違えるってのがかなり面白いと思ったんだけど、なぜそんなことをこの頻度で起こすのか、その理由は彼女のあの言語で発信されるのみならば解明は困難を極めるだろう。類似事例はあるのか。

副詞や慣用表現などの装飾で意味が間違っているだけであれば、骨子は伝わるのだけども接続助詞を独自のルールで用いることがあり、そのときは意味が一瞬迷子になる。あの中毒性は接続助詞の誤用によるトリップ感に宿っているのではないか。

 

またこれも確かではない(というかすべて確かではない)のだけど、彼女にもコンディションというものがあるらしくすべてのポストにポエティックな表現が見られるわけではない。ちなみに彼女のポエティックな表現においては無生物主語構文にとくに触れたい。

無生物を主語にするときはとくに筆が乗っているのか、副詞や慣用表現がより暴走している場合が多い。おそらく、普段は、いちおう慎重に、丁寧に、副詞や慣用表現を用いているのだろう。そう考えると彼女の不思議な言葉をいちいち愛しく思ってしまうという気持ちをお分かりいただけるでしょうか。

 

こちらの解析がおもしろかったので

洗濯物

当たり前の話なのだけど、一人暮らしをしていて家族がいないと「これだれの服〜?」みたいなことが起こらないな、と思いながら乾いた洗濯物を畳んでいる。実家の母も洗濯物を畳むたび「だれの服〜?」と子供たちを呼んだ昔を思い出したりするだろうか、しないだろうな! 母は家事ごときで感傷に浸るような人ではないのだ! さあ、もう寝ましょう!

食事と生活 2

五月十九日。

果物の皮を剥くときは原石から宝石を切りだすような気持ちでカットしている。皮を剥くのではなく、塊からみずみずしい果肉を取りだすイメージ。

宝石は面が多いほど輝きが増すけど、果物はなるべく少ない面で最大の果肉を得るようなカットがふさわしい。しなやかな曲面に包丁を滑らせるとやわらかな宝石が姿を現す。健やかに熟れた果物はほんとうに美しい。

 

五月二十日。

教わった覚えはないけれどゆでたまごにはコツがある。卵の尻(トレーの下側になっている方ですね)にスプーンをぶつけて小さなヒビを入れてから鍋に移したら薄く水を張り火にかけて五分、火を消して三分放置。

湯を捨てて水で洗って手で持てる温度まで冷ましたら卵を少しずつまわしながら作業台にコツコツ当ててぐるりと全体の殻を砕いてしまう。そうしておいてまずは卵の尖っている上と下から剥く。それから腹巻のように残った殻をくしゃくしゃと外せばツルリと綺麗なゆでたまごが食べられる。

尖った上下の殻を剥くのを最後に残してしまうと、プルプルの白身を殻に持っていかれてしまうことに気づくのに二十九年かかった。長かった。

 

五月二十一日。

気づいたときには冷蔵庫から出したままずいぶん時間が経っていて、すっかり室温に戻ったヤキソバの麺は冷えていたときの固さを失い、薄いビニール袋のなかをくにょくにょと油で滑っていた。どうせ焼くのだからとビニール袋を破りそのままフライパンに投入したところ、麺はスルリとほぐれ蒸すための水もいらなかったのでカリッと香ばしいヤキソバが焼けた。

母がこのように発見したかどうかは知らないが、実家のヤキソバのコツは麺を室温に戻すことだった。いまでも私は麺をいれたらすぐに蓋をして、同時に炒める野菜の水分だけで麺を蒸してほぐして焼いてしまう。

小さい頃の大きなホットプレートで作るヤキソバは実家の休日の昼食の定番だった。姉弟で母を手伝った。なかでも粉ソースを振りかける作業は特別で、だれがもっとも広範囲に均一に粉を振りかけられるか姉弟で競った。いまでも粉の袋を開けるときから、今日はうまく振りかけられるかなって、一瞬、子供の頃の緊張が胸をよぎってしまうんだ。

食事と生活

五月十六日。

会社帰りにスーパーに寄る。豚肩ロースのスライスがグラム93円。安い。豚肩ロースといえば、オーブンで蒸し焼きでしょう。

部屋に着いたら荷物を下ろして豚肉に塩と胡椒を振る。玉葱をたっぷり10㎜くらいの厚さに切ってクッキングシートに並べて、上に豚肉を広げる。こっち半分はチーズもかけちゃう。冷蔵庫に転がっていた甘唐辛子も横に添えて、ふんわりとアルミホイルをかぶせて、230℃のオーブンで30分セット。

そしてこのあいだにシャワーを浴びちゃうのが最大のポイント。

バスタオルを肩にかけて部屋に戻ったころには良い香りが漂っていて、アルミホイルをはずせば透明の肉汁を表面に浮かべてシットリ焼きあがった豚肉からホワッと湯気があがる。最高でしょ。

 

五月十七日。

近所の喫茶店でピザトーストを食べていて手持ち無沙汰だったので、あまり使わないタバスコをポッポッと振りかけてみたらとても美味しかった。辛くて酸っぱいところが昔は苦手だったけど、チーズのコクとぴったりじゃないか。晴れてタバスコ肯定派に生まれかわった私はタバスコを購入した。

いまは良くいえばコーンの香ばしさが味わえる、つまりパンチの足りないトルティーヤ・チップスに勢いよくタバスコを振りかけてバリバリ噛み砕いている。フレッシュサルサ風にトマトや玉葱と合わせたら美味しくなりそうだけど、包丁を持つのが面倒でチップスだけで食べてしまった。

 

五月十八日。

アサリを酒蒸しにしていて、カタンカタンとひとつひとつ貝が開いて死んでいく音に心を折られかけたことがあったが、ムール貝の下処理もかなり精神的な苦痛を伴う。

下処理したことある人しか知らないと(知らなくていいと)思うけど、ムール貝には足糸という黒っぽくゴワゴワした毛がボッと生えているのだ。これを毟るのが下処理なのだけど、さすがにムール貝も痛いのではないかと考えながらブチブチッと毟ったところ、手にしていたムール貝がキューーーーーッと鳴いた。

ミュッと変な叫び声をあげながらムール貝を流しに放りだして、いまこれを書いている。明日はこれでパエリアを作ります。

ちょっとおこがましくて

自分を植物にたとえると何か、という他愛ない問いかけが話題に上ったのは会社の課員で飲みにきている居酒屋の席でのことだった。もとは社内報の裏表紙で新入社員に投げかけられていたものだった。

ご存知のように弊社は造園会社である。
すぐに答えが出るのかと思えば、ひとりは何かの暗示を探すように小皿に置いた割り箸を丹念に見つめ、ひとりは何杯目か分からない麦焼酎の水割りをグイッとやり、私はといえばグラスを持ちあげて輪になった水を手拭きでぬぐっていた。妙な沈黙が降りた。

ようは謎かけのようなもので植物の名前を宣言してしまったら共通点をこじつければいいだけなのに、なにか、これだ、と断言できない。

「自分を植物に例えるのは、ちょっと…おこがましくて…」

と、先輩が言い放った途端、「それだ…」「たしかに…」「恐れ多い…」「憧れの植物なら言えるけど…」と賛同の声が相次いだ。

結論としては、生命体として植物は人類より遥か上の存在であり人類ごときを例えるのは恐れ多いということで満場一致。誰も口に出したことはなかったけど弊社の設計技術者は植物を心のどこかで崇拝しているということが明らかになった。

だから私は植物をデザインする、なんて考えは的外れだと思っているよ。そういう行為をなんて呼べばいいか、これも口に出したことはないまま迷っているけども。